the Global Sessions

オセアニア滞在&旅行記です。

トニー滝谷

村上春樹の世界がひどく損なわれている作品だった。

何も足さない。何も引かない。むかしそんなCMコピーがあった。村上春樹の作品には、何かを足してもいけないし、何かを引いてもいけない。つまりそれくらい完成度が高い。だから映像化するのはよっぽど才能のある監督でない限りは無理だ。市川準は「トニー滝谷」の中に余計な表現、解釈を付け加え、どんどん村上春樹の世界を損ない続けていった。

小説にしろ映画にしろ芸術には様々な解釈があり、それは読む人観る人の自由である。だから市川準がこのように映像美だけで描いた「トニー滝谷」の世界もアリなのかもしれない。しかし、村上春樹の作品は、そんなに美しいものではない。現実生活の中に存在する人々の闇を描いたこの作品を表現するにはただ美しい映像だけでは無理がある。

市川準の「トニー滝谷」の中には現実に生きている人間が存在しない。小説世界の人間は結局小説の中の人間でしかない。そう言っているような気がする。しかし、村上春樹の意図は絶対に違う。現実に息をしている人間をきちんと描いているのだ。

こういう映像美だけの映画を評価してしまうのなら、大自然の映像を眺めていた方がよっぽどこころが洗われる。

それはスーパーで買い物をするシーンにさえ現れている。うずたかく盛られた玉ねぎを、とある通行人Aの女性が崩してしまう。それを見かけた店員が、彼女を責めるように見つめる。そんなシーンは必要だろうか?

村上春樹の原作を読んでいたらその余りの世界観の違いに失望してしまうでしょう。うーん、村上春樹ファンとしては原作だけで十分。映像は美しい。それは認める。でも、中身が村上春樹の世界とはいえない。あまりにも美化され過ぎている。

市川準がCM監督だから言うのではないけれど、30秒のCMをどんどん繋げていってこの映画を作り上げている印象を受けた。映像は確かに美しい。しかし30秒間だけしかもたない映像美はCMとしての力強さはあるけれど二時間近くもある映画には向いていない。

村上春樹の作品を映画化するのであれば、小説に忠実にすべてを表現しなければ意味が無い。

トニー滝谷、という作品にインスパイアされて作りました。でも、原作とは違いますし、村上春樹氏の意図は全く反映されていません、とでもことわりを入れるべき。

村上春樹のファンは、この作品を認めない。この映画の評価が高くてびっくりするのだけど、いわゆる映像美にやられちゃうんだろうなあ、と思う。確かに映像は奇麗。でも30秒しかもたない映像美にはCMとしての価値しかない。

市川準というひとは、現実の社会を知らない。おそらく彼は自分で買い物にいったり、料理をしたり、ショッピングをしたり、女性の買い物につきあったり、という経験がないのだろう。そうとしか思えない表現ばかり。

それと、小説の主人公は、別に映画の世界に住む人々ではない。だから、あんな住み難そうな家に住んでいるのも変。ちゃんと普通の家に住まわせてこそ、リアリティが出る。村上春樹の小説を、変な美しさで飾り立てている。小説は決して美しい世界があるわけではなく、現実の世界にひそむこころの闇を描き、読者に考えさせる。この映画は市川準解釈をつけくわえ過ぎている。